2月の不安を越えて



このブログのタイトルにつけた「あの角を曲がれたら」とい詩を書いたのは

ちょうど昨年の1月でした

エンカレッジの復学支援「卒業」という言葉を先生から頂いて

でも一生、家庭教育を学び続けることを誓って

お世話になった上野先生、訪問カウンセラーの先生方に宛てて

書き始めた文から始まりました


2月は小学5年だった息子が休み始めた月

そして復学して1年が過ぎて

エンカレッジの支援を卒業してすぐにこけた月


2月はそんな思いがよぎる月ですから

1年前に書いた自分の言葉を改めて振り返ろうと思います





~家庭教育推進協会 会報2012春より~


昨年の10月に名古屋のエンカレッジに初めて相談に伺ってから1年3か月

子どもの復学という目標を果たし

継続登校という新たな目標をもって1年が過ぎました。

復学できた奇跡は大切な宝物。そして継続登校は新しい夢への一歩です。

エンカレッジを卒業しても、これからの継続登校で

思わぬアクシデントが降ってくることがあるでしょう。

でも私は1人ではない。

ぷらす・エールという場を通じ先生方やたくさんの方々との繋がりを感じて

その安心感がまた、明日への一歩に繋がっていきます。

お世話になった先生方に、感謝の思いが募ります。

心からの「ありがとうございました」を込めて綴ります。



「この子は発達障がいです。

おそらくは、高機能自閉症と呼ばれるものになるでしょう。

世間の荒波にもまれるようになりますよ。」

2歳を少し過ぎた頃、医師は私に淡々と告げました。

育てにくさを常日頃から感じてはいたけれど、医師のストレートな言葉は

子どもの柔らかい皮膚にジューッと煙をあげて

「自閉症」という焼印を押されたように酷く響きました。

診察を終えて駐車場に向かいながら歩いていると、握った息子の手は暖かく

チャイルドシートに座らせるとスーッと眠りにおちていく。

「つかれたね・・・」静かに眠る息子を見ていると

「この子の脳のどこにどんな傷があって、この子を苦しめるのか」

というやり場のない思いが涙になってぽたぽた落ちました。



勉強は出来た方がいい、走るのは速いほうがいい

そんなあたりまえに思っていたことそれらをすべて放り投げゼロになり

この子がこの子らしく豊に発達できることが一番大切であると

思えるようになるまでにはたくさんの涙と時間が必要でした。



この子の成長のために、日々の生活の中で色々な方法を模索していきました。

2歳ころは自閉症状の百花繚乱期。こだわりが明らかに正常範囲を超えています。

私はいつも鞄に子どもがパニックにならないための

いろいろな小道具をいれて持ち歩いていました。

一歩外に出たら糸の切れた凧のような子です。

興味の湧くものに猪突猛進、あきらめることを知りません。

言葉なんて耳に入らないのです。毎日が真剣勝負で気を抜けません。

2歳児で療育施設「〇〇園」に入所し、そこで2年間を過ごしました。

この2年間が私にたくさんのことを教えてくれ

かけがえのない出会いをくれました。

そして子もまた、この2年間で目をみはる成長を見せてくれました。

自閉症の子どもは彼らの世界に住んでいます。

高機能自閉症の子どもは私たちと同じ世界に住んでいます。

ただし、自分なりに・・・

人の感情を察する、人を思いやるという大切な感情が育ちにくい。

哀しいことでした。

しかし、入所から2年、散歩で川の土手を歩きながら

いつものようにサーッと駆けて行った息子がわき道から現れた時

真っ赤な彼岸花を1本摘んで「はい」って私にくれました。

この子の中に私への小さな温もりが芽生え

ゆっくり育ち始めた感情が確かにある。

転園話で迷っていた私の肩を、息子がそっと押してくれた瞬間でした。

「この子がいるから、これだけの人生しかおくれなかった」ではなく

「この子がいるから、これだけの人生がおくれた」と言えるようにしたい。

そう転園時の言葉で述べました。




親のカウンセリングマインド「先回りしてものを言って子どもの経験を奪わない」

これを知った時、小さい頃、どうしても先読み無くしての子育ては

出来なかった頃を思いました。

私は子の成長をもっと感じて

次のステージに登った子育てで変わらなければいけなかった。

変わって行くことが必要だった。

悩んで転園を決めたのに、わずか2か月で適応障害をおこし

申請した時には却下された療育手帳が、今度は向こうから転がりこみました。

やっと、兄弟揃って通えた園。

ですが、息子は何かに傷つき、こだわりを強め、物への執着にふけります。

どうにも、身動きできない所まで追いこまれ、2人を退園させました。

それからは、何とかして空白の時を作るまいと通える園を探しました。

「弟さんだけなら、明日からでも来てください。」

これがかつて医師が私に言った「世間の荒波にもまれるようになりますよ」

と言う事だったのか。

寄せて来る波をかわす術を知らず、真っ向からあびました。

だけど、〇〇園で重度の障がい児を抱えながらも

「苦しいけど、不幸じゃない」

って言い放つ潔いお母さんたちの苦労を見てきたもの。

こんなもんは、苦労じゃない

乗り越えてやる、乗り越えられると信じていました。

市役所の通された部屋で、何名かのスーツ姿の男性の方々を向こうに、

「息子の発達は集団の中でしか望めないんです。

この子をもう一度集団に返らせてやりたいんです。

どうぞ、この子にチャンスを下さい」と訴えました。

あの苦い経験が、息子は失敗が生きないのだと言う事を心に刻みつけ

この子の道の前に転がる石は私が取っておこう

高いハードルなら少し下げておこう、そういう意識を刷り込みました。




小学生になる日のために、その生活に慣れてリズムに乗るために

水面下で入学前から何度も学校と交渉しました。

そして、その甲斐あって息子は

小学校の校門を1人でくぐって行けたのです。

たくさんの、知らない子どもたちの中に

自分の居場所を見つけて行けたのです。

この子の道は、この子の可能性を信じて

親が方向を見極めレールをしいてやらなければ・・・

そうすることで、子どもは小さな成功を積み重ね達成感を得て

いずれ自分の足で歩いて行ける。

当時はそんな風に考えていました。

でも、それはいつしか中学受験の道へと、ゆっくりと形を変え

私たちを誘い導いて行きました。

息子は達成感を手に入れ続けることの重さで

木の枝がしなるように元気を無くし

静かにその動きを止めました。

しなやかさの無い枝はやがてポキンと音をたてる。

わかっていたのに私は何を追いかけていたのだろう。

気づいていたのに私は何故守れなかったのだろう。

この子がこの子らしく豊かに発達していくことが

私の一番の願いであったはずなのに・・・。





不登校という状態に陥った時

かつて子を診断した児童精神科の医師が言いました。

「私があの時この子につけた診断、広汎性発達障害という診断は

気の迷いだったのかも知れません。

そう思うくらい、今のこの子は成長しましたね。」

複雑でした。

手放しで障がいがないのだと喜ぶほど、めでたい母ではありません。

何より傍にいる私は、彼の生きぬくさを知っているのですから。

その生きぬくさが

個性と呼ばれるものの範ちゅうに収まってきたのでしょうか。



障がいが息を潜めたのに、今は不登校という渦の中。

何故こんなにも辛い道ばかりこの子は歩いていくのだろう。

いや、歩かせてしまったのか。

「発達障がいはお母さんの育て方が悪いからではありません。

脳の機能障がいです。」


そう言われてきたけれど

今度は自分の子育てが赤ペンで次々添削されていく。

過保護・過干渉・子の問題と親の問題を分けて考える

命令、指示、提案をしない

1つ1つが身に沁みます。落ち込みます。

何度も同じことをしている自分が情けなく、自己肯定感が消えていきます。



ですが、ここで私が変わらなければ子どもの変化は望めません。

先を歩く人たちがブログで発信しているように、私も変わりたい。

そして子どもを学校に戻したい。彼の成長はそこでしか望めない。

きれいなものを見たり美しい音楽を聴いたりして「癒し」を得るというけれど

それはただ気持ちいいだけ。

自分の本当の癒しは、自分の中の傷から膿をえぐり出すことでしか得られない。



先生方が子どもと真剣に向き合って、母を、家族を、再生させてくれようと

手を貸してくれた。

それは1つのマウスのクリックから始まったことだけど

真っ暗闇で立ち尽くしていた私たちが伸ばした手を、しっかりと握ってくれた。

「よく頑張ってきましたね。今日からは、もう一人ではないですよ。」と

孤立していた私たち家族をやさしく包み、暖かな光を届けてくれた。

この光の導く方に歩いて行けば、きっとこの暗闇から抜け出せる。

この人たちを信じてついて行こう

この人たちに全てを委ねようと心から思いました。




人から受けた恩、感謝の想いは「恩送り」という形で

これから出会う人たちに繋ぎ紡いでいくとありました。

息子はどんな形で「恩送り」をするのでしょう。

そしてわたしは、どんな形で「恩送り」をしていくのでしょう。



復学して2か月ほどした頃、息子が学校で書いた作文があります。

「僕が学校に行けなくなった時、お母さんは僕を連れて何回も病院に行きました。

病院の先生は小児科のお医者さんで僕にとてもやさしくしてくれました。

僕も大きくなったら、あの先生みたいな小児科のお医者さんになって

やさしく病気の子をみてあげたいと思います。」

今ではもう忘れてしまったかも知れないけれど、胸の中に自然にわいた恩送り・・

やさしい感情に包まれた恩送りを、どんな風に形を変えても胸にもっていて欲しい。




あの角を曲がるまで、今日も気づかれないように、そっとあなたを見送ろう。
あの角を曲がれたら、今日も行けたと一息ついて、家に戻って行きましょう。

あの角のずっと手前で、あの日あなたはうずくまり、もう歩けないと泣きました。
あの角のずっと手前で、あの朝あなたは倒れ込み、息が出来ないと私の背中におぶさりました。

でも今は、緑の鞄を肩に掛け、しっかり歩いて行くんです。
前を向き、振り返らずに、しっかり歩いて行くんです。

私はもう二度と、あなたの道の先頭にたって、道しるべを立てません。
私はもう二度と、あなたがふと立ち止まっても、こっちがいいよと後ろから押したりしません。

はらはらどきどきしながら、少し離れた場所に立ち、あなたを応援して行こう。

時には余計なひと言で、あなたを怒らせてしまうでしょう。
あなたの問題に口を出し、自己嫌悪に陥るでしょう。

でもね、私も変わっていくからね。

あの角を曲がるまで、今はもう少し、こうして見させてくださいね。
あの角を曲がれたら、私も私の道に、ゆっくり戻って行きますから。

~2012年2月~




そして今、一年が過ぎ、この後に一行つけ加えます


「そしてきっと、私も私の選んだ道を、しっかり歩んで行きますから。」




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来年、またこの後にさらに加える言葉を持って振り返ることができますように


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No title

「あの角を曲がれたら」
パソコンに向かいながら、息子に気付かれないように泣くのは限界です。涙を流す私に気付きながら、見ない振りをしているのか…?何も聞いてこないけど。。。
苦しかったですね、あの頃。本当に。苦しかった。
くるみさんと同じく、私もワンクリックで目からウロコだったのですが、それまでは本当にわからなかった…私たち夫婦の間違いが。
なぜ腹痛にのた打ち回るのか、治ってもなぜ学校に行けないのか、なぜ人が怖いのか???

うちも継続登校1年が過ぎましたが、今でも窓の外に赤いキャップが過ぎるのを見送ります。
ガランとしたリビングが幸せであることを実感して。

「あの角を曲がるまで」「あの角を曲がれたら」
きっと忘れられないフレーズになると思います。

ヤヒーさん

私の書いた詩を忘れられないフレーズとしてヤヒーさんの胸に刻んでもらえた!!
こんなステキなメッセージをありがとうe-420
今朝も期末試験に向かう息子の後ろ姿をこっそりと見送りながら
どこかでヤヒーさんも子どもさんの赤い帽子が動いて行く様子を同じ思いで
見送っているのだなぁ・・と感じながら家に入ってきました
不登校という苦しく辛い毎日をあきらめず、自分の子どもに何が必要なのかを
見極めて今日の継続登校に繋げたヤヒーさん、これからも一緒にがんばって行きたいと
願っていますe-454メッセージありがとうございましたv-22
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プロフィール

くるみ みるく

Author:くるみ みるく
小5の終わりから始まった体調不良、そして不登校。
学校に行くというあたりまえに思っていたことが、これほど大変なことだったとは・・・。
復学支援をうけ、もう1度歩き始めた子どもを応援して行くために親はどう接していくのがよいのでしょうか。
学び続けることで見えてくるものは何でしょうか。

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